I.
正統性や影響力の観点からいえば、中島みゆきがブラームスで荒井由実はサン ・ サーンスとしてもアナロジーは成り立つが、和声の複雑さと前衛性という観点において、間違いなくユーミンはセザール ・ フランクに近い。 フランクが半音階的語法や循環形式を駆使して同時代の和声的限界を押し広げたのと同様に、 ユーミンは、 分数コードやテンションコード、 洗練されたボイシングを日本のポップスに導入した。商業音楽の作曲分野において時代の最先端を切り拓いていたのは、 疑いなくユーミンである。 そして、なぜか比較されがちな中島みゆきは大正・昭和初期の文豪のようだ。中島みゆきのあの時代の楽曲は、太宰治や谷崎潤一郎のように、 人間のカルマや情念を泥臭く書きなぐった文体だから、メロディや歌詞の強烈さに注意が向きがちだ。 しかし、編曲という観点からすると、 当時の歌謡曲のフォーマットを忠実にまとっており、 信じられないほど古臭い。
ユーミンの『昨晩お会いしましょう』 (1981 年)収録の「ビュッフェにて」 。同じ1981 年にリリースされた中島の「悪女」と比較してみよう。 「ビュッフェにて」では、食堂車(窓辺に運ばれた紅茶) 、城下町、消印の手紙といった、時代がかった古い小道具が登場する。しかし、描かれている精神性は驚くほどドライで、自立していて、普遍的 だ。
あなたも今ごろは 淋しくくらしてるとどこかで信じている 私の願い 許して
別れた相手に対して、私と同じように、 あなたも不幸であってほしい、 寂しくしていてほしいと願う女のエゴイズム。 この戦略性と戦略性の戦略的な開示こそが、 ユーミンが時代を超越した普遍性を持つ理由であろう。一方の「悪女」は真逆である。あなたが早く私に愛想を尽かすまで、裸足で夜明けの電車で泣いてから。自己犠牲的な相手に尽くす自分に酔う主観だらけ の情念だ。このテーマは、 当時の時代背景に強く紐づいたものであるかもしれないが、 今見るとほとんど月9 ドラマのように芝居がかって見える。中島の歌詞は、読者の胸ぐらをつかむような、どきっとする(サプライズがある)、 言葉の連続であるが、 それはあくまでその時代ごとの空気や匂いを強烈にパッケージングしたものだ。 だからこそ当時は熱狂的に支持されたのだろう。対してユーミンは、 古い小道具を使いながらも、 まるでフランス映画の基本的な欠点を取り除いて洗練させたかのように、 感情を映像として切り取ってみせた。だからこそ、 食堂車や手紙がスマホに変わった現代でも、彼女の描く別れのあとの静かなエゴイズムと孤独は、全く色褪せることがない 。作曲能力と、精神の客観性。この 2 点において、古典としての勝敗は明白であったと言えるのだ。中島が共感で信者を救済する土着のシャーマンだとすれば、松任谷は圧倒的な美意識と、 カリスマを提示して民衆を教化する、 完全なるトップダウン型の新興宗教教祖である。 信者たちは、かくありたいという憧れとともに、 彼女の提示する世界観にひれ伏してきた。そして、 ユーミンの小道具を昇華させる錬金術の極致を示す 3 つの例(窓辺に運ばれた紅茶、 城下町、 消印)は、 どれもただの風景描写にとどまらず、 固有名詞や時代がかったアイテムが、 聴く者の背筋をぞっとさせるほどの感性へと反転する瞬間である。ここから布教に入る。
II.
『真冬のサーファー』
黒いウェットスーツを着て冬の海に向かうサーファーたちを、カラスの群れのようさ と例える。カラスのような彼らを見つめながら、最後には「テイクオフの高鳴りを かかとにかんじる」という、サーフィンというスポーツの極めてマニアックで瞬間的な身体感覚へと一気にズームインするのだ。アメリカ西海岸の 1960 年代ビーチボーイズ的な風俗が、突然冷たくて硬質な、都会の女の洗練された視界へと昇華される。まさに天才の所業と言わねばならない。
『よそゆき顔で』
ドアがへこんでいるということは、 彼が運転が荒いのか、 どこかでぶつけたエピソードを彼女が知っているのか。 そのへこみに、 彼の人格や、 二人が過ごした時間、 そしてもう修復できない二人の関係性までもが凝縮されている。実際には、観音崎に歩道橋はないようだし、 白いセリカよりもこの文脈ならばハイエースが現実的かもしれない。しかし、松任谷はいつもドビュッシーのように、実際にはないのに我々が内部に既に保持している風景を喚起させる。
『天気雨』
本気度が高い趣味+淡い恋のバランス。もしこれが東海道線なら、 ただの東京から湘南への観光になってしまう。 相模線という、単線でローカル感の強い路線に乗って、 内陸の白いハウスの長閑な田園風景を抜けながら、 終点の海 (茅ヶ崎)へ向かう。ゴッデス(茅ヶ崎の老舗サーフショップ)という固有名詞は、彼が本気で打ち込んでいる趣味(サーフィン=ゴッデス ) 」という男の聖域に、 少しだけ足を踏み入れる女の子の距離感で、だからこそ、 「やさしくなくていいよ クールなまま近くにいて」というセリフは、ベタベタした依存の臭いがしない、現代の KPOP 的な美学として響く 。松任谷の歌には時代設定の古い小道具や局所的な固有名詞がたびたび登場する。普通なら、時代が下るにつれて「ああ、昔流行ったやつね」と陳腐化して終わるはずだ。しかしユーミンは、 その時代劇のセットを、 主人公の冷徹なほどのしたたかさ、 疑いぶかさ、 独善性、 絶妙な距離感の恋を化学反応させる。 結果として、 セリカもゴッデスも相模線も、 昭和の風俗を脱ぎ捨てて、 いつの時代も変わらない、 若く切ない青春のイコン (聖遺物)として永遠の命を得るのである。
『悲しいほどお天気』
この曲には 80 年代以降のユーミンが得意とした、 時代の流行を表す語彙は出てこない。 美大 (多摩美術大学) 時代に通った玉川上水沿いの風景という、 極めてパーソナルでノスタルジックな情景である。
名もない蔦や柳が低くたれこめて 絵を描く私達それぞれ一人にさせたまるで先の人生を暗示するように
ずっと一緒に歩いていける、と思っていたモラトリアムの終わり。 これを、 奇をてらった言葉を一切使わず、純粋な情景描写とメロディの力だけで描き切る。まさに古典での直球勝負 であり、ドヴォルザークやバルトークが、 ただのドミソの和音だけで霊感のある旋律を作るのと同じ、 圧倒的な基礎能力の高さを見せつけていると言える。
『セシルの週末』
【提示部】
「下着は黒」 「煙草は14 から」 「なんだってくすねてきた」という不良少女のツッパリ(第1 主題)と、周囲の男たちからの「どうせ一晩だけのチューイングガムさ」という冷ややかな視線(第 2 主題) 。【展開部】そこに本気で怒る不思議な人 (あなた) が現れ、 彼女の心が揺さぶられ、 変わりはじめた私へと物語が転調していく。【コーダ】忙しいパパと派手好きなママは 別の部屋でくらしている今でも週末ねだりに行くけど もう愛しかいらないもうすぐ素直な娘におどろく'Cause you say you want to marry me不良少女のセシル、 という仮面がガラガラと崩れ落ち、 愛を知って素直な娘へと生まれ変わる瞬間。この完璧な伏線回収とドラマチックな大団円で、ベートーヴェンの交響曲第 5 番や J・D・サリンジャーのフラニーとゾーイーにおいて、苦悩と葛藤の果てに、 最後の最後 (コーダ) で圧倒的な歓喜と光の爆発を迎えるように、 ユーミンは 『セシルの週末』 のコーダに、 ひとりの少女の救済をすべて詰め込んだ。
『緑の町に舞い降りて』
「綾とる水面をゆっくり越えて」はポップスとクラシックの深淵が交差する奇跡のような部分だ。 「あや」の瞬間までは、五月の空のようにどこまでも明るく、透き通った音の世界が広がっている。しかし「と」の瞬間に至ったとき、 突如として風景の輪郭が曖昧にぼやけ、 メジャーともマイナーともつかない、ふっと空中に放り出されたようなアンニュイな浮遊感が生まれる 。アマデウス・モーツァルトのピアノコンチェルト第 25 番(ハ長調)の第 1 楽章は、ティンパニとトランペットが鳴り響くような、 圧倒的に堂々とした祝祭的な和音で幕を開ける。 しかしその直後、 突然何の前触れもなく深い影が落ちるのだ。恐ろしいのは、 ユーミンがこの突然雲がかかる部分を、 「綾(あや)とる川面(かわも) 」という言葉にぶつけている点である。 「セロファンのような午後の太陽」 が川面に反射してキラキラと輝いている。 しかし川の流れによって光は乱反射し、 明るく光ったかと思えば、 次の瞬間にはスッと暗く沈む (綾をとるように光と影が交錯する) 。 ユーミンは、 この水面の光がふっと陰る物理的な現象と、旅先の美しい風景を前にして、いずれ去らなければならないことを想う心の影を、 たった数小節で見事に描き出した。モーツァルトが祝祭の中に死と絶望の影を忍ばせたように、松任谷もまた、 五月の輝くような盛岡の風景の中に、永遠ではないことの寂しさを忍ばせた。晴れ渡る午後の日差しに、 ほんの一瞬だけよぎる雲。 その天才的な明暗のコンストラクションにおいて、2 つの楽曲は星座を超えて抱擁しているのだ。
『タワー・サイド・メモリー』
当時の神戸ポートピアは、 未来と希望に満ちたキラキラした日本の象徴であった。 しかしユーミンは、 その博覧会そのものではなく、それが終わって、 魔法が解けたあとの暗くて静かな海 (ただの夜) を描いた。 おしゃれをして彼とドライブに来たのに、 二人の関係はもう以前のようには甘くない。だから彼女は、寂しさを隠すために「急にはしゃぎ出す」 。この 「おしゃれしたのも悲しくて」 という強がりと自己防衛の心理。 きらびやかな未来都市の残骸 (ポートピアの閉幕) と、 冷えていく恋を重ね合わせる手腕は、 まさに日本古来の盛者必衰(もののあはれ)を、シティ・ポップに乗せて上手に粉飾して、ドビュッシーのように概念を 喚起・体感させることに成功した。100 年後のリスナーすら神戸の夜海へといざなってしまうのも当然である。
『守ってあげたい』
【和の原風景(ミクロ・具体) 】
「遠い夏、 息を殺してトンボを採った」 という極めて日本的でノスタルジックで俳句のような土着の情景描写
【西洋的レトリック(マクロ・抽象) 】
「もう一度あんな気持ちで、 夢をつかまえてね」 という商業ポップス的な未来志向で抽象的なメッセージ本来なら絶対に交わらないはずの「虫」と「Dream」を、 「つかまえる」という一つの動詞でシームレスに繋いでしまったのだ。 泥臭い田舎の風景を、 一瞬にして普遍的な自己実現と庇護の愛のアンセムへと昇華させてしまう。和洋折衷の究極系である。
『グループ』
そっと駆け寄るか 姿を隠すか それはその時決めることすぐに見つけなきゃ あなたが私に 気付くより早く
ここにあるのは、 フランスのヌーヴェルヴァーグのような、 冷徹なカメラワークである。 昔の恋人が集まるパーティー。 扉を開ける直前の、 数秒間のサスペンス。 彼を見つけた時、 私はどう振る舞うべきか、 を頭の中でシミュレーションする。 これは極めて理知的でドライな西洋の工学的なアプローチだ。しかし、その根底に流れているのは、 「むかしとおんなじまぶしいあなたが立っているかしら」という、過去の美しい記憶(もののあはれ)への激しい郷愁なのである。洋装をまとった紫式部は強靭な西洋の器 (コード進行、 シネマティックな客観的視点、 抽象的レトリックに、日本人の DNA に刻まれたもののあはれ(無常観、散り際の美学)を流し込んだ。だからこそ、 どれだけ小道具が古びようが、 時代がバブルから令和へと移り変わろうが、 彼女の歌は古びない。 なぜなら、 その本質は平安時代から変わらない生命の哀しさを普遍的な構成で蘇生(Auferstehung)させたものだからである。信徒たちは、 表向きはおしゃれなリゾート感や洗練された恋愛を消費しているつもりでも、 実は無意識のうちに、 この高度に計算された燃えさかる芸術を摂取させられていたのだ。
『ダンデライオン〜遅咲きのたんぽぽ』
ユーミンはただの優れた作詞家 ではなく、音の連なりと時間の経過を完全に コントロールする建築家である。
風に乗り飛んできた儚い種のような愛はやがて来る冬を越えて行く
風に乗り飛んできた儚い種、 まで聴いたリスナーの脳内には、 完全にタンポポの綿毛が飛んでいる映像が主語として立ち上がっている。ところが直後に 「〜のような」 という反転スイッチが押され、 次の一拍で真の主語である愛が唐突に現れるのだ。しかし、 愛という言葉は抽象的すぎるため、リスナーの脳内処理プロセスは一瞬のタイムラグを起こす。そして、 「冬を越えていく」というフレーズを最後まで聴き終えた瞬間に、 「綿毛=過酷な冬を越える=愛の強さ」という巨大なメタファーが、 時間差でパズルのようにガチッとリフレインする設計になっているのだ。中島であれば 「〇〇は〇〇」 とパワーワードを叩きつけるところを、 ユーミンはあえて文法をいびつに装飾し、リスナーがリアルタイムで意味を処理する数秒間の 遅延すらも、 楽曲のサスペンスとして利用している。
傷ついた日々は彼に出会うための運命が用意してくれた大切なレッスン今 素敵なレディーになる
「運命が用意してくれた大切なレッスン」、というフレーズは、ユーミンの恐るべき切れ味からすると、驚くほど陳腐な言葉の選択である。しかし、これが「今 素敵なレディーになる」という結尾を輝かせるための、 意図的な溜め (助走)である。 ユーミンの作曲家としての実力を勘案すると、彼女は間違いなく「今 素敵なレディーになる」という、この曲の最もカタルシスのある決定的なフレーズ を先に設定したはずだ。 平凡なほとんどの作詞家はストーリーや言いたいことを順番に書いていく。『ダンデライオン』は原田知世という少女アイドルへの提供曲(1983年) であったことを考えても、 ヌルい少女の言葉(レッスン)から大人の女性への階段 (素敵なレディー)へという跳躍を、ユーミンは確信犯で(正しいことだと信じて)やってのけた。
『青いエアメイル』
5 年 いえ 8 年たってたずねたなら声もかけれぬほど 輝く人でいてほしい
この曲について語られる時、誰もが「5 年、いえ、8 年」という、手紙を書きながら逡巡するリアルな時間差(思考のプロセス)の表現を絶賛する。1979 年当時、 「ら抜き言葉」は明確に日本語の乱れ・文法的な間違いとされていたようだ。 本来なら 「声もかけられぬほど」 とするべきである。中島みゆきのような大正か昭和の文豪であれば、ここは正統な文法を守ったはずだ。 しかしユーミンは、 メロディへのハマりの良さか 「かけれぬほど」のなんとなく格式高い古語でありそうな響きを優先し、あっさりと「ら」を抜いたようだ。
『白い服、白い靴』
さあ 明日は何を着てゆこうゆうべ何度も鏡に向った白い服 白いロウヒール
タイトルは「白い靴」なのに、2 番でいざそのフレーズが登場する時には「白いロウヒール」にすり替わっている。 この喪失体験が恍惚感を生むという感覚は、 痛いほど共感する人間がいるはずだ。もしここが「白い服、白い靴」のままだったら、ただの題名の回収で終わり、少し童謡っぽく、 野暮ったくなってしまったであろう。 しかし、リスナーが 「ああ、 ここでタイトルが出てくるな」と身構えた瞬間に、 ユーミンは 「ロウヒール」 という極めて具体的で、女性の年齢感や気合いの入り方 (ハイヒールではない絶妙なリアル感) まで伝わる解像度の高い単語を、 すり替えるようにすっ と差し込んでくるのである。 表向きの看板では靴という普遍的で記号的な言葉を使いながら、歌の中の最も大切な瞬間(2 番の魔法)で「ロウヒール」というプライベートな真実を耳元で囁く。 この、 期待させておいて、 予想とは違う、 しかし予想より遥かに美しくて具体的なものを見せられるという裏切りこそが、ドラッグのような恍惚感を生む。この現象(2 番の魔法における裏切り)はビーチボーイズの『Kokomo』の 2 番の歌詞、
That dreamy look in your eyeGive me a tropical contact high
と比較できるだろう。『Kokomo』の 1 番の歌詞は、Aruba, Jamaica...と地名を羅列するただの情景描写のカタログに過ぎない。しかし 2 番になって突如現れる tropical contact high(薬物を使っている人に近くにいるだけでトリップの影響をうけた状態)というフレーズ。 これこそが、 この曲の真のペイロードなのだ。ポップスにおける 1 番は、どうしても名刺代わりの状況説明や情景描写になりがちだ。 リスナーを曲の世界に引き込むための玄関に過ぎない。 しかし2 番は、 作家が本当に言いたかったコアな哲学や、 狂気、 そして最も鋭利な感性を忍ばせるための秘密の部屋だ。松任谷は、この曲ではその伝統に忠実に従った。1 番で地下鉄での偶然の再会と、今の彼氏の存在という状況を客観的にスケッチし、2 番になって初めて、 主人公の女の子が前の晩に鏡の前で 「明日は何を着てゆこう」 と、 恋心と自意識に悶絶していた痛々しいほど純粋な過去のを、スローモーションのようにゆっくりと提示する。 ここで松任谷が 「白い服、 白いロウヒール」 というフレーズをゆっくりと歌うとき、信徒の脳内には強烈な contact high が引き起こされるのだ。ポップスの歌詞データベース(コーパス)において、 「ヒール」につく接頭語の 99%は「ハイ(High) 」である。だから、ハイヒールは背伸び、気合い、女としての武装など の象徴であり、わかりやすいドラマを生む。 しかし、 ユーミンはここでロウヒールを選んだ。ハイヒールで行くのはいかにも気合いが入っていてカッコ悪い(張り切りすぎ に見える) 。だから、あくまで自然体で、でも計算し尽くされた正装としての白いロウヒール。そして、Low という語句の持つ意味がここで重要になる。 なぜならば、 商業音楽はことばの意味を音楽によって極端(ロマン的)に増幅させることで影響力を行使する分野だからだ。 ポップスの歌詞において「High」は気分の高揚や天国的なイメージ、あるいは躁状態に直結するが、 「Low」は鬱、落ち込み、死、そしてそれらよりも最も怖い低気圧的で逃れられない、 ディメンター(吸魂鬼)のような不吉な予兆を持つ。 「しろいふく、しろい・ロ・ウ・ヒ・ー・ル」と、あのゆったりとしたメロディで「Low」という音が響いた瞬間、我々の無意識下には「あ、この完璧な準備は、何か低いところ(Low)へ引きずり降ろされるぞ」 という黒い影が落ちる。 まさに、 その直後にやってくる 「ひどい雨降り(文字通りの低気圧でもある) 」への完璧なサウンド・トラックになっているのである。
何も云えずに服をたたんだ予定ができたと電話を切った
松任谷はこの曲の結末として「服をたたみ、 嘘をついてデートをキャンセルする」ことを選んだ。この行動は、 かなりプライドが高いタイプのナルシスティックな諦めともいえる。 彼女にとって最優先すべきは、 彼に会うことではなく、完璧にスタイリングされた 『白い服と白いロウヒール』を着こなす美しい私というエスセティクスだったのである。泥が跳ねて服が汚れるくらいなら、あるいは雨でテンションが下がった惨めな姿を晒すくらいなら、いっそこの完璧な物語は部屋の中で永遠に封印されるべきなのだ。
No one, I think, is in my tree(僕の木には誰もいない)I mean, it must be high or low(つまり、高すぎるか低すぎるんだ)That is, you can't, you know, tune in, but it's all right (君たちとは周波数が合わない、でもまあ、いいさ)
レノンが『Strawberry Fields Forever』で歌ったこの Tree(自分だけの絶対的な精神の孤独・高み)に引きこもる感覚。ユーミンの主人公もまた、 窓の外の雨を見た瞬間、 自分の中で高まっていた完璧な美意識(周波数)が、現実世界の周波数とは絶対に チューニング(Tune in)できないことを悟ったのだ。だから彼女は、but it's all right(まあ、いいさ=予定ができたと電話を切る)と、自ら進んで自分の木(部屋)に引きこもり、きれいに服をたたんだ。これは敗北ではなく、自我を守るための極めて傲慢で美しい自己隔離(アイソレーション)である。フェルナン・クノップフはこれを「I Lock the Door Upon Myself(私が私自身に対してドアを閉ざす) 」という絵画で表現した。この傑作は、 外界を完全に遮断し、 自分自身の内面 (記憶や美意識)の奥底に鍵をかけて沈み込んでいく女性の、 冷酷なまでの孤高を描いている。ユーミンの 『白い服、 白い靴』の結末は、まさにこれと同じだった。
『ダイアモンドダストが消えぬまに』
バブル景気がまさに狂乱の頂点へと向かっていた 1987 年という時代に発表されたこの曲は、確率の収束 (平均への回帰)という数学的な波のヴィジョンとして読み解くアプローチ が有効である。 平凡なスポーツ指導者や学校教員等は、成績が上がった、下がったという結果に対して、 常に感情や理由 (怒ったからだ、褒めたからだ) を後付けしたがる。 しかし宇宙の真理からすれば、それはただ波が揺れ、 平均へ収束しているだけである。つまり、規格外の巫女は、 世間がこの幸せ (バブル ・ 右肩上がりの経済 ・ 恋愛の絶頂) は永遠に続くと錯覚して浮かれているど真ん中で、波が今、極限のピークに達した。 ということは、次は必ず落ちる (収束する)という残酷な算数を、無意識のレベルで知覚してしまったのであろう。 波の頂点における病理的な恐怖と不安が、
幾億の波を見上げたらなぜか思いきり泣けた
という、 この上なく美しく恐ろしいフレーズに結晶化している。 海底という究極の静寂から、 水面で揺れる幾億の波を見上げている。 自分が今、 とてつもない特異点 (ピーク) にいることを悟り、 その奇跡的な美しさとこれが永遠ではない (必ず収束する) ことへの根源的な絶望から涙が溢れる。 これは、栄華の頂点を極めてしまった人間の、 宇宙的な恐怖とカタストロフィーの描写に他ならないのだ。 そして、 その見えない確率の波を一般大衆にも感知させるためのアイテムが、この曲の狂気的なまでの色彩と温度のコントラストである。
真夏(碧いラグーン) ⇔ 冬(ダイアモンドダスト)紅珊瑚(赤・生命の象徴) ⇔ サファイア(青・無機質で冷たい鉱物)
一番の歌詞では 南半球のリゾートでの二人きりの真夏のクリスマス という、これ以上ないほどの極彩色と生の喜びが描かれる。ところが、これが二番になると突如として、
はじめまして ひとりの冬クリスマスにさあ乾杯
と、 色彩が完全に抜け落ちた残酷な現実 (収束した波の底)へと叩き落とされる。 この凄まじい落差こそが、 ユーミンの脳内に見えていた確率の波の視覚化だったのである。そもそもダイアモンドダストとは、 極寒の無風状態という極めて限定的な条件 (確率的な奇跡) が揃った時にだけ発生し、 太陽の光を浴びてキラキラと輝き、 そして一瞬で消え去ってしまう現象である。 ユーミンは 1987 年の時点で、日本のバブルも、自らが提供する最高級のライフスタイルも、すべてはダイアモンドダストのような一過性の蜃気楼に過ぎないことを、DNA レベルで理解していたのだと推察される。だからこそ、 「消えぬまに」と急き立てるように歌った。
『一緒に暮らそう』
一見すると、 冬の街角でのハッピーなプロポーズ (同棲の提案) という、 ポップスとしては最凡庸で手垢のついたテーマだ が、かえってユーミンの異常な言語感覚と計算高さ が最もグロテスクなまでに際立つ曲になっている。「ねえ さっき思いついた」冒頭のこのフレーズはセンスのいいチャラさを想起させる。普通、 「一緒に暮らそう」という提案は、 人生における重大な決断であり、 これ以前の日本のフォークでは、 貧乏や覚悟といった重さや泥臭さの象徴であった。それをユーミンは、まるで「ねえ、あそこのカフェに入らない?」くらいのテンション (さっき思いついた) で切り出す。 しかし、 その軽いノリで提示された理由が 「さよならを云わなくてもいい方法」 である。 デートの終わりに訪れる別れ際の寂しさを解決するための、解決としての同棲。 この軽さと事実の重さのギャップで、 信徒は祭司の周波数に巻き込まれはじめる。「そんな驚いた顔で 立ち止まらないで」ここはかなりメタ的に聞こえる。ここでユーミンは、 自分自身の感情を歌うのをやめ、 カメラのレンズを突然の提案にフリーズした彼氏に向けているけれど、信徒にも問いかけているようだ。ここから作詞というよりも、 映画のディレクションに近づいていく。信者は主人公の目線を通じて、驚いて立ち止まる彼の顔をスクリーンで見ているような錯 覚に陥る。 「ポケットで手をつなぎ」というのも、イメージ戦略のようで、つまり自分たちが街角でどう美しく見えるかという、極めて客観的な空間認識に基づいたフレーズなのだ。 感情に溺れず、 常に画 (え)をコントロールしたがる。「二人同時に年とってゆく」 。普通に考えれば、 人間は誰でも同じスピードで年をとる。しかし、 別々に暮らしている恋人たちにとって、 共有していない時間はそれぞれの時間だ。 「一緒に暮らす」 ということを、 「ずっと好きだよ」でも 「毎日ご飯を作ってあげる」でもなく、これからは全く同じ時間軸の上で、物理的な老化現象を同期させていくべきなのだ、という生命論 ・ 時間論にまで暗躍させているのである。そして、後半はこんな結末を迎える。
長いこと探したの 今やっと会えたのふりしきる粉雪も祝福してる運命をつかまえた 愛している
前半からずっと、ユーミンは「ウィンターセール」 「ウィンドウの食器」など、都会的でドライな情景描写を積み重ねてきた。その下地があるからこそ、 突如として放たれる 「長いこと探したの」という生々しい独白と、 「運命をつかまえた」という強烈にフィジカルで重い言葉が、てこの原理でぐわんと響く。 信徒は彼女の過去の恋愛遍歴など何も知らないのに、 この一言で 「ああ、彼女はこれまで沢山の恋に破れ、孤独な夜を乗り越えて、ついにこの瞬間に辿り着いたんだ……!」 と、 勝手に自分自身の過去の傷を重ね合わせ、 強烈なカタルシスを捏造させられてしまうのである。そして、運命に"出会った"ではなく、"つかまえた"(能動的な捕獲)としているところがポイントだ。 なぜなら、 この直後に彼女は 「タクシーにとび込んで」 (=タクシーを"つかまえて")一緒に暮らす部屋へと向かうからである。運命という抽象的なものと、タクシーという物理的なものを、 つかまえる ・ 乗り込むというアクションで見事にリンクさせて幕を下ろすのだ。
III.
私のユーミン評が一般的理解とてんで合わない理由、 それはもう明確である。 大衆がユーミンの楽曲を私の日常を慰めてくれる自己啓発(セラピー)や、あるあるネタとして理解しているが、私は恐るべき心理学的な罠だらけの宮殿だとみなしているからだ。『さざ波』において、
愛が終わるのを 繕ったら明日を生きるのに おくれたわ
というフレーズに共感して泣く理由は、 これが失恋から立ち直るための、 最高に都合のいい言い訳(セラピー)だからである。しかし、着目すべきはその直前のブロックである。
霧が水面をゆっくり流れ帰る岸辺を覆いかくすようにもうしばらくは本当の愛を見つけられずに さまよってもいいの
この部分こそが、前回の白いロウヒール の話で述べた 、クノップフ的な自己隔離( I Lock theDoor Upon Myself )の真骨頂である。オールを捨て、霧に覆われて岸(現実・次のステップ)が見えなくなることをよしとする。 これは明日へ向かうのとは真逆の、喪失の甘美な痛みに自ら溺れ続ける、 自己愛に満ちたウィーンの世紀末的なデカダンス (退廃)なのだ。ユーミンの曲には、 いつも大衆とアルゴリズムが好む健康的な解決を標的にロックオンする。 常に時の試練を耐え抜くための頑丈なタイムマシンが設置されている。『DESTINY』は、なぜかユーミンの最高傑作のひとつとされる。一般的に、
どうしてなの 今日にかぎって安いサンダルをはいてた
この部分だけを切り取って、 「わかる〜! 元カレに会う時に限ってスッピンなのよね〜!」 という日常のあるあるコントとして消費されている。残念なことに、大勢の人がここでキャーキャー言って共感し、満足して終わってしまうのだ。この曲の真の恐ろしさは、この「安いサンダル」が永遠に出口のないワーグナー的な未解決和音 (トリスタン和音) を作り出すための呪いのトリガーとして機能している点にある。
【動機】 冷たくされて、いつかは「みかえすつもりだった」 。【条件】 みかえすためには、 「完璧にドレスアップして、 幸せで輝いている私」 を彼に見せつけなければならない。【解決】 それを見せつけて彼が後悔すれば、 私の復讐は完了し、 この未解決の執着は消え、私は「他の人に心をゆるす」ことができるはずだった。
ところが!!!!!!!!!!!!!!
【事件】 よりによって今日、彼に会ってしまった。しかも「安いサンダル」で。【トリスタンの冒頭の和音】 安いサンダルを履いていたせいで、彼を「みかえす」ことに失敗した。
ここが最大のポイントなのだ。 復讐に失敗したということは、完璧な姿で彼をみかえす、 というタスクが未解決のまま次回に持ち越されたことを意味する。 だから彼女は、 明日からもまた完璧な私を準備し続けなければならない。 そして次の機会を待ち続けなければならないのだ。 かくして、
今日わかった また会う日が生きがいの 悲しい Destiny
という、永遠に彼を待ち伏せし続ける象徴主義的な宿命が完成する。つまり、この曲の本質は 「安いサンダルを履いていたが故に、 彼女の時間は永遠に止まり、 復讐という名の悲しいDestiny(輪廻) に囚われてしまった」という、ぞっとするようなゴシック・ホラー的要素にあるのだ。トリスタン和音が、 何時間も解決を先送りにして聴衆を焦らし続け、 究極の恍惚と狂気をもたらすように、 ユーミンは 「安いサンダル」 というたった一つの道具を使って、 この女性の人生を永遠の未解決に突き落としたのである。 ユーミン自身もこの極端な戯曲 では大衆受けしない ことを自覚していたのであろう。だからこそ最後に、
(今日わかった) 空しいことむすばれぬ 悲しい Destiny
と、 「ほらほら、私たち結ばれない運命なのよ、悲しいわあ」という、説明的な字幕(妥協)を入れてあげたのだ。最後に、「まちぶせ」を取り上げる。1981 年に大ヒットした石川ひとみ版は、当時の大衆が求める、 健気で、 ちょっと可哀想で、 でも一途に待っている女の子という幸薄いアイドル・ポップスとして完璧にプロデュースされていた。 大衆は 「好きだったのよ……」 と歌う彼女を見て、 感情移入したのである。しかし、ユーミンが 1996 年に突如としてリリースしたセルフカバー版。これを聴くと、曲の重心が完全に「あなたをふりむかせる」という、 強烈な自信と目的遂行へとシフトしている。ユーミンの声で歌われると、
偶然をよそおい 帰り道で待つわ
この部分が、 悲劇のヒロインの哀願なんかではなく、 獲物が罠にかかるのを、 冷徹にスコープ越しに覗き込んでいる狙撃手の視点にしか聴こえなくなる。 ユーミンの描くヒロインは、 絶対に自分から尻尾を振るようなアホな真似はしないのだ。 『白い服、 白い靴 (ロウヒール) 』 で完璧にスタイリングし、 『グループ』 で彼を見つける前に身の振り方をシミュレーションし、 『一緒に暮らそう』 でタクシーをつかまえて運命を征服したように。 彼女たちにとって恋愛とは、緻密な計算と認知力を駆使し、 あたかも偶然であるかのように相手に錯覚させ、 最終的に勝つための知の闘争なのである。そして、この曲を 1996 年(すでにユーミンが日本のポップス界の頂点に君臨していた時代) に、 あえて松任谷正隆のアレンジでセルフカバーした理由は、後世の作曲家や音楽研究者への松任谷受容を見据えているものだ。ユーミンは、 大衆が 『まちぶせ』を幸薄いアイドルの可哀想な歌として音楽史に固定してしまうのを許せなかったのであろう。
「あんたたち、勘違いしないで。私が 10 代の荒井由実時代に書いたこの曲は、そんなメソメソした歌じゃない。『知性と誇りを持った女が、才能で男を狩る歌』 なのよ。 後世の音楽辞典には、そう書き残しなさい」
という、 教祖様からの公式なアップデートだった。 それをちゃっかりセルフカバーでやってのけるあたり、本人もまた底知れぬしたたかさと言わねばならない。