AIスロップ公害とは
本データベースが記録する事例群に共通する点は、環境公害のアナロジーで理解できる。工場が有害物質を垂れ流すと川が汚染され、何も悪いことをしていない下流の住民が被害を受ける。AIスロップを大量生成する者が垂れ流すとプラットフォームが防衛的になり、何も悪いことをしていない正規ユーザーが巻き込まれる。PC-4の非ネイティブスピーカーは自分でAIを一切使っていない。人間が書いた文章をAI検出ツールが誤判定し、学業や研究キャリアが破壊される。PC-1・PC-2の研究者はAIスロップを一切投稿していない。他人のスロップに対するプラットフォームの防衛反応により、検索から消されるか、AIに「この論文は存在しない」と抹消される。メインデータベースが記録する事例でも、被害者はAIとかかわらなければよいという選択肢はそもそも持っていないことも多くある。メインデータベースINT-23の高齢患者は保険会社が導入したAIに給付を打ち切られ、INT-1の消費者は知らないうちにAIに価格を23%上乗せされ、JP-9の4歳児はAIの存在すら知らないまま死亡した。AIを使っていない人間がAIによって損害を受け、しかも自分がAIに損害を受けたことすら認識できない。これが我々が、AIのインシデントについて公害と呼ぶ根拠である。
PC-38は、本データベースの公害アナロジーを一段階拡張する。従来の中心パターンは、第三者がAIスロップを大量流入させ、プラットフォームが防衛的に変容し、その副作用を正規利用者が受けるという下流汚染であった。これに対してPC-38では、AIサービス提供者自身が、有料ユーザーの応答ストリームへ低品質生成物を反復供給する。利用者はすでに課金とモデルピッカーによって品質経路を選択しているため、外部スロップのように非表示・ブロック・別サービス選択で個別に分別することができない。これは川へ汚水が流れ込むのではなく、購入した浄水器の蛇口そのものから汚水が出る自家汚染である。さらに、救済窓口まで自動応答botで閉じると、汚染を生んだAIと、汚染を申告する窓口のAIが閉ループを形成し、人間によるサーバーログ確認、原因究明、返金、是正に到達できない。したがって本件は、単なるモデル品質の揺らぎではなく、有料サービスの提供透明性、選択可能性、救済可能性が同時に失われる新しいAIスロップ公害として評価する必要がある。
PC-35・PC-36は、AIスロップ公害が機械の出力だけで完結しない新段階を示す。PC-35では、人間のコメンテーターが、個別事件を深く調査せず、どの話題にも接続できる一般論を反復することでAIスロップと同型の「人間スロップ」へ変質し、Yahoo!の専門家認定マークと非表示不能な固定表示によって権威化される。PC-36では、SNS上の詐欺的誘導スロップをYahoo!のAIが抽出・要約し、見出し、背景説明、感情分析、ランキングを付けたニュース様コンテンツへ変換する。前者は「人間スロップ→専門家認定→固定表示」、後者は「SNSスロップ→AI要約→ニュース化」という異なる経路を持つが、いずれもプラットフォームが低品質情報を権威洗浄して利用者へ強制的または優先的に配信する点で同一である。AIラベルや免責文は、認定マーク、見出し、ランキング、表示位置が先に与える信用を相殺しない。したがってAIスロップ公害の評価対象は、生成物の品質だけでなく、誰がそれを”信頼”できる情報へ変換し、どのUIで固定・推薦・再配信したかまで拡張する必要がある。
AI起源の検証不能と挙証責任の反転
PC-37が示すのは、AIスロップの内容検証問題を、AI利用そのものの禁止によって解消することはできないという点である。Wikipediaの記事に必要なのは、各記述が信頼できる公表済み資料により支持されているかという検証であり、これは人間執筆でもAI補助でも省略できない。ところがAI起源を禁止対象にすると、従来の内容検証に加えて、編集者がどの道具を使って文章を作ったかという外部から直接観測できない制作過程の判定が必要になる。自己申告は隠蔽に無力であり、AI検出器は偽陽性・偽陰性を解消できず、文体上の兆候は人間にも生じる。結果として、十分に整えられた未申告AI文章は通過し、人間文章が疑義を受けた場合には執筆者側が事実性と適合性を証明するという挙証責任の反転が起きる。これはPC-4・PC-8のAI検出誤判定と同型であり、禁止規則はスロップの流入量を減らす可能性があっても、検証問題そのものを解決せず、別種のGATEと追加検証コストを発生させる。
それでどうやって見抜く!?
既に本データベースで見たように、多くのプラットフォーム、企業、研究機関では、AIスロップ対策の一環としてAI使用開示ルールを設けている。しかし自己申告だけでAI使用を判定する制度では、AIを使ったことを正直に申告した利用者だけが制限や不利益を受け、申告せずに「使っていない」と嘘をついた利用者が有利になる。実際、PC-26で記録したSteamの事例では、AI開示対象ゲームの評価低下との関連が実証されており、AI開示要件を無視し、AIを使っていないと嘘をついたほうが有利に働くインセンティブが生じる。
もちろん実務側もこの問題を認識しているため、AI使用開示だけで運用を完結させてはいない。実際には、AIらしいと判断したコンテンツの削除やBAN、追加審査、異議申立てなど、AI使用開示以降のルールが別に設けられている。しかし、AIらしさを機械判定すれば偽陽性が生じ、人間が確認すれば検証コストが増える。AI使用開示ルールは本当に意味があるのか。それ自体がAIスロップを見抜く手段にならない以上、EU AI Actなどの規制要件や各組織の透明性要件を満たすためだけの、形骸化したルールになりつつある。
この問題への一つの方法として、AIを使ったかどうかをYes / Noで申告させるのではなく、作業工程ごとの所要時間を申告させる方法がある。論文であれば、アイデア形成、文献調査、実験、データ分析、執筆、改稿などについて、それぞれ何時間かけたかを記録する。単一の「AIを使っていない」という嘘は検証しにくいが、工程別の時間申告では、成果物との整合性を確認できる箇所が大幅に増える。たとえば、文献調査3時間で200本の参考文献を挙げていれば1本当たり54秒、執筆10時間で80ページなら1時間当たり8ページとなり、申告内容そのものから不自然さを検証できる。
重要なのは、虚偽申告を完全に不可能にすることではない。虚偽を成立させるために捏造しなければならない組合せを増やすことである。AIを不正利用した者は、単に「AIを使っていない」と一つ嘘をつくだけでは足りず、アイデア形成、文献調査、実験、分析、執筆、改稿など複数工程の時間を決め、その数字を論文の長さ、参考文献数、実験内容、データ量、改稿履歴などとも矛盾しないように組み合わせなければならない。申告項目が増えるほど捏造の組合せ数と破綻点が増えるため、正直な利用者よりもAI不正利用者の側に大きな負担がかかる。AI使用そのものを直接見抜けなくても、嘘を安く維持できない制度に変えることはできる。
ほかにも、全件を人間が審査するのではなく、ランダムサンプリングによって一部だけを人間のみで精査し、AIの不正使用が確認された場合に重いペナルティを科す方法は古典的だが有効である。すべての違反を発見できなくても、抜き打ち検査の可能性と発覚時の不利益が十分に大きければ、AIをこっそり使用する側の期待コストを引き上げることができる。全件を人間だけでレビューすることが現実的でない以上、AI不正利用者の負担を重くする方向で制度を設計する必要がある。具体的には、単純なAI使用のYes / No申告ではなく工程別の申告項目を増やして虚偽申告の難易度を上げること、抜き打ちの人間審査を行うこと、不正使用が確認された一部の事例には十分に重いペナルティを科すことなどを組み合わせる。AIを完全に見抜くことを目標にするのではなく、見抜かれないことを前提に不正利用した場合でも、その行為が安く、安全で、得になる状態を崩すことが重要である。
数学界によるライデン宣言
2026年6月2日に公表された「Leiden Declaration on Artificial Intelligence and Mathematics」は、数学研究におけるAI利用が生む制度的リスクへの国際的な共同応答であり、国際数学連合(IMU)も支持を表明した。宣言は、もっともらしいが不正確な証明、AI生成物による査読負荷の増大、ツール利用・計算資源の非開示、著者帰属と学習データ利用への同意、研究者間の計算資源格差、企業による研究課題と評価基準の支配、AI企業による能力誇張を主要な問題として挙げ、人間著者の最終責任、利用ツールの開示、厳格な査読・検証、著作者の権利保護、産業界から独立した公共研究基盤の整備を求めている。宣言の公表自体は具体的被害者と実害を伴うPC事例ではないため単独収録しないが、PC-12(Sakana AI)における査読資源・採択枠の占有、研究流通の制度的不均衡など、本データベースや当社が記録した既知の副作用が数学界全体の制度問題として認識されたことを示す根拠資料である。出典: Leiden Declaration公式)
公開ラベリング型GATE
PC-16・PC-17・PC-18は、いずれも2026年5月に集中して発生した新しいGATE類型である。これらは従来のBAN・削除型GATEとは異なり、コンテンツやアカウントを直ちに消すのではなく、「AI使用疑惑」を公開ラベルとして表示することで、信用毀損型の被害を発生させる。自動ラベルは一見すると軽い注意表示に見えるが、視聴者・購入者・ファン・広告主に対して「この素材はAI生成物かもしれない」という疑念を公的に付与するため、誤判定コストをプラットフォームから被害者へ移転させる。この性質は、PC-8(UC Davis GPTZero誤判定事件)とも共通する。PC-8では、AIを使っていない学生がGoogle Docsのバージョン履歴を提出して無実を証明する必要に迫られた。PC-16〜18の公開ラベル型GATEでも、正規ユーザーは「AIを使っていない」という消極的事実の証明 (悪魔の証明)を負わされる。キーストローク記録、制作過程ログ、撮影メタデータ、編集履歴などの保存が自衛の標準になりつつある現状は、人間性証明コストという新しい税の誕生としてみなされるだろう。
今後の拡大が予測される領域
プラットフォームがAIスロップ対策として導入する自動フィルタは、必然的に保守的な閾値設定になる。スロップを見逃すよりも正規コンテンツを巻き込む方が安全という組織的判断が働くためである。PC-3(Stack Overflow)のモデレーターストライキはこの矛盾が爆発した典型であり、PC-4(AI検出ツールの系統的誤判定)・PC-7(Texas A&M誤告発)と合わせて「AI検出ツール3兄弟」として参照できる。2026年7月時点では、予約、音楽ストリーミング、動画推薦、視覚探索、短動画、EC、ゲーム配信、ゲーム攻略出版、採用、法廷提出書面、ニュースコメント、SNSバズ要約・金融情報、オンライン百科事典編集についても具体的な制度変化と実害が確認されたため、PC-21〜PC-37として本データベースに収録した。一方で、文学・絵画コンクール、グラント審査、特許出願、学会誌へのAI論文判定ソフト導入などについては、同様の問題拡大が予測されるものの、具体的被害者や制度的防衛変容の確認が不十分な領域は引き続き所見にとどめる。④特許出願へのAIツール利用拡大による審査インフラ過負荷(2025年12月の日本の特許出願件数が8万2188件と前月比約2.69倍に急増。AI特許支援ツールによる出願コスト削減が背景とされ、SNSでは「特許庁へのDDoS攻撃」と表現する声も出た。国立情報学研究所の佐藤一郎教授は一部の企業や特許事務所がAIツールを使って大量出願した可能性を指摘。AI特許支援ツールベンダーのCEOは「従来の人的リソースのみでは現実的に処理が困難な規模」と認めた。特許庁の審査官の認知処理能力C_maxを超える出力速度Vが発生した事例として、Naito (2026b)が予測するV > C_max動態の制度インフラ領域での実証例となりうる。ただし現時点では特許庁側の防衛的変容および具体的被害者の特定が不十分なため、所見にとどめる。出典: 日経クロステック 永田雄大(2026年3月)「12月に急増した特許出願件数の謎、コスト削減につながるAI利用拡大が背景に」「特許出願数が異例の水準に、25年12月は前年同月比170%増 ちらつくAIの影」)。これらは具体的被害者が確認され、より強いエビデンスと損害が見つかり次第、本データベースに収録する。
⑤学会誌へのAI論文判定ソフト導入による正規論文の誤排除懸念(2026年3月、国立情報学研究所の越前功教授らが開発したAI論文判定ソフトを日本物理学会が学会誌の査読に導入。NHKが報道。精度90%と報じられたが、投稿量が通常水準である検証環境での数値であり、AI生成投稿の大量流入により投稿量が2倍以上に膨張した実運用環境での偽陽性率は未検証と推定される。また非ネイティブ英語話者の論文をAI生成と誤判定する傾向は複数のAI検出ツールで報告されており(PC-4参照)、日本の学会では投稿者の大半が非ネイティブであるため環境固有のリスクが高い。精度の数値的アピールが投稿量一定という暗黙の前提に依存している点は、Naito (2026b, Section 4.3)が示したものと同一であり、実際に処分を含む運用がなされないか懸念。出典: NHKニュース 2026年3月25日)
メインデータベースとの関連
AI Incident Database(メインデータベース)のJP-0(Springer Nature査読捏造事件)の被害者であるUTIE Instruments Inc.は、本データベースPC-1(Zenodo)・PC-2(arXiv等)の被害者でもある。AIスロップ問題を研究する機関が、AIスロップとAIスロップ対策の副作用という両方の損害を短期間で受けたという事実は、本データベースが記録する問題の深刻さを象徴している。
被害者は声を上げられない
本データベースに収録されたPC事例(Zenodo・Stack Overflow・Clarkesworld等)が表面化した理由は、被害者の中にすでに実績と証拠を持つ告発者がおり、不当な排除に対して声を上げる手段を持っていたからである。しかし採用選考・助成金審査・フリーランスプラットフォーム・金融与信といった領域では、AIスロップ対策の誤作動による被害がはるかに広範に、かつ完全に不可視のまま進行している可能性が否定できない。AI検出アルゴリズムの偽陽性によって機械的に足切りされたとしても、通知されるのは「人間による慎重な検討の結果、誠に残念ながら」という定型文のみである。被害者は「自分の実力が足りなかった」「運が悪かった」と思い込み、一人で絶望する。異議申し立ての窓口は存在せず、被害者は自分が差別されたことすら知らない。被害者が被害を認識できないという点で、これは本データベースに収録された事例より深刻な問題といえるだろう。
異議申立制度のウォッシュ化 なお、プラットフォームは公害対策として異議申立プロセスを用意していると説明する。しかし、異議申立によって判定が覆った件数、割合、審査主体、処理時間、再審査理由を公開していない場合、公開情報上、異議申立てによる救済実績を確認できないものとして扱う。これは、救済制度の存在を対外的にアピールする側が、その実効性を示す最低限の証拠を提出していないためである。多くのプラットフォームは、異議申立制度によって覆った数を非公開としているため、外部向けに「手続を用意している」と説明するための制度的ウォッシュとして用意されたものとみるべきである。
COVER (隠ぺい)は経済的合理性として発生する
なぜ企業・プラットフォームは度々AIスロップ公害インシデントを隠蔽するのか。それはモラルの問題ではなく、いくつかの合理的帰結である。まず、総合的な判断という法的シールドの存在である。採用・与信・モデレーションにおいて、企業には判定プロセスの詳細を外部に開示する法的義務がない。「社内規定に基づく総合的な判断」という定型文を使えば、それがAI検出ツールの誤作動であろうと非ネイティブへの差別であろうと、すべてを合法的に隠ぺいできてしまう。そして、認めた瞬間に発生するシステマティックな差別の立証リスクである。もし企業がAI検出ツールの誤判定と認めた場合、それは同じアルゴリズムで弾かれた過去の全員に対するシステムレベルの差別を公式に自白したことになる。これは、集団訴訟・コンプライアンス違反に直結するため、法務部は「絶対にシステムエラーとは認めるな」と被害を個人の不満へ矮小化する組織的隠ぺいモードを強制する。AI判定を人間が覆すことの経済的非合理性もある。コスト削減のために導入したAI判定を人間が精査し直すことは導入の目的そのものを否定する。企業にとって無実の人間を数人誤って捨てるコストより、判定プロセスに人間を介入させるコストの方が圧倒的に高い。異議を唱えられた時だけ後付けで、人間がちゃんと確認した(ヒューマンインザループ)という建前を引っ張り出す。本データベースのメインデータベースに収録されたSpringer Natureらの隠蔽パターン(COVER類型)と本質的な理由は同じであり、AIの出力が表面的には正しそうに見えるため管理職が「適当に取り繕えば逃げ切れる」などと判断し、組織的隠蔽が最もコストパフォーマンスの良い選択肢として採用される。
法令による防衛的変容の強制
PC-1〜PC-18は、いずれもプラットフォーム側の自主防衛として発生した防衛的変容であった。これに対してPC-19(Take It Down Act)は、国家法令が48時間削除義務を通じてGATEを制度的に強制する初期事例である。制度目的は非同意性的画像・AIディープフェイク被害の迅速救済であるが、48時間以内にAI生成性、本人性、同意有無、報道・証拠保存・批判目的などの文脈を精密に判断することは実務上きわめて困難である。このときプラットフォームにとっては、正規投稿を巻き込む過剰削除であっても、FTC制裁を回避するための法的合理性を持つ。したがって、COVER所見で述べた経済的合理性に加えて、今後は法令遵守・制裁回避という法的合理性が防衛的変容をさらに強化する。
差別の連鎖
これが従来のスパム問題との最も本質的な違いである。昔のスパムフィルターが誤作動しても、そのメールが相手に届かないだけで終わった。しかし現在は、一つのプラットフォームが正規ユーザーを検索から除外すると、そこを参照・学習している他のAIシステム(検索AI・対話AI・引用チェックシステム等)が「その人物・その企業・その論文は存在しない」と学習する。PC-2(arXiv・SSRN問題)で記録した通り、AIシステムが実在する論文を「架空文献である」と判定して参考文献リストから自動削除するという事態がすでに発生している。一つのプラットフォームの雑な防衛アルゴリズムの誤作動が、そこを参照する世界中のAIシステム全体に連鎖・増幅し、実在する人間の業績と実存をデジタルナレッジから自動的に抹消していく。被害は一つのプラットフォームで完結せず、デジタル世界全体に波及する。これが、AIスロップ公害が単なる技術的ミスを超えた社会的問題になりうる理由である。
非関与第三者への被害拡大
PC-20(Ashley MacIsaac事案)は、被害者が問題のプラットフォームに何も投稿していないにもかかわらず、検索プラットフォームのAI要約が虚偽の犯罪歴を生成し、公演キャンセルという実害に至った事例である。この点で、冒頭の公害アナロジーはさらに拡張される。AIスロップ公害では、川下住民だけでなく、川を利用したことすらない第三者も、プラットフォーム上で生成・流通したAI出力によって被害を受けうる。
これは「差別の連鎖」で述べた抹消型被害と対になる。PC-2では、実在する論文がAIに「存在しない」「架空文献である」と扱われ、デジタルナレッジから抹消される方向の被害が発生した。PC-20では、逆に実在人物へ虚偽の犯罪歴という存在しない属性が付与された。抹消(存在の否定)と捏造(虚偽属性の付与)は別問題ではなく、プラットフォーム上のAIシステムが人間の社会的実在を外部から再記述する同一機構の双方向出力として理解できる。
単純フロー制限と疑似フロー制限の区別と複合フロー設計の必要性
Naito (2026a)は、AI出力の正しさや真正性を個別に判定するのではなく、人間の監督能力を超えないよう出力フローそのものを制御するFlow-by-Flowを提案している。この考え方を実際のプラットフォーム運用へ適用する際には、単に投稿数を制限しているという外形だけでは不十分であり、どのような主体に、どの単位で、どの程度回避困難な制約が課されているかを区別する必要がある。本データベースでは、その違いを明確にするため、真正の単純フロー制限、疑似フロー制限、複合フロー設計を区別する。疑似フロー制限とは、外見上は投稿速度を制限していても、本人確認や回避防止が不十分で、追加アカウントなどによって低コストで迂回できる実装を指す。PC-14(PIXTA)が採用した既存ユーザーへの事後的アップロード枚数制限(5000枚超の投稿実績を持つユーザーに対して月3000枚から1500枚への半減を個別適用)は、表面的には投稿速度を制限するフロー制限に見えるが、KYCによる真正性チェックを経由しておらず、新規アカウントの作成によって容易に回避できる。スロップ生成者にとってアカウント量産の限界費用はほぼゼロであるため、この種の事後制限はROIを毀損せず、むしろ既に実名・法人登録で参入している正規の人間クリエイターだけを選択的に拘束する結果となる。つまり、コンテンツ判定アプローチの失敗と同じ帰結(正規ユーザーの選択的排除)に至る。
さらに、KYCを伴う真正のフロー制限であっても、それが単一次元の数量制限にとどまる限り、LLMの特性上やがて最適化により突破されることが予測される。限界費用ゼロ・出力速度非線形拡大という生成AIの特性は、許容される投稿枠の範囲内で最大限にスロップを含む情報を埋め込むという最適化圧力を継続的に生成する。単純フロー制限はこの最適化圧力に対して静的防御であり、時間の経過とともに有効性を失う欠点を内包している。本データベースの文脈において重要なのは、PC-14のような疑似フロー制限と真正の単純フロー制限と複合フロー設計の三者を明確に区別し、プラットフォームが採用している防衛手段がどの層にあるかを評価する枠組みを持つことである。
なぜ正しいアプローチが採用されないのか
現在のarXiv・Zenodo等のプラットフォームは、いわば蛇口を全開にして汚水を垂れ流しながら、下流でフィルターが目詰まりしたと騒いでいる状態である。なぜ蛇口にKYCという物理的流量制限をつけないのか?この問いに対してNaito (2026b)は既に3つの理由を議論している。第一に、経済的インセンティブの非対称性である。蛇口を開けること(投稿の自由化・ユーザー数増加)はプラットフォームの成長として短期的に評価される指標である。KYCを導入すれば摩擦が増えユーザー数が減りインプレッションが落ちる可能性がある。被害者(正規研究者)は声が小さく、受益者(スロップ業者)は目に見えない。蛇口を締めることの短期的コストは明確だが、締めないことのコストは不可視である。そして、スロップ汚染の被害は累積するが、臨界点を超えるまで表面化しない(E_detected ≪ E_actual)。現場の担当者は「まだ大丈夫」と認識し続ける。PC-6(Clarkesworld)のように突然崩壊するまで問題は静かに蓄積しているだけである。フィルターが目詰まりして、初めて大変なことになったと騒ぐのは臨界点を超えた後の反応的対応(Naito, 2026bのThreshold Shock、Phase III: Reactiveを参照)である。根本的な問題は、蛇口を締める設計をした人間が責任を取る必要がないという問題である。プラットフォームを設計した人間はオープンサイエンス・言論の自由という理念を掲げており、その理念を守っている限り批判されにくい。しかしその理念の結果としてスロップが流入し正規ユーザーが排除されても、その因果関係を自分たちの設計ミスとして認めると、PC-1・PC-2で整理した通りクラスアクションのリスクがある。だからスパム業者が悪い、AIが悪いという矮小化や隠ぺい工作(COVER)をするのが合理的選択になる。
研究分野におけるAIスロップ対策としてのゲート強化の実態
Google DeepMind・Microsoft Research・Meta AI・OpenAI等の大企業研究者は、arXivと自社ブログ・学術会議を並行して使うマルチチャンネル戦略を取っている。arXivへのプレプリント投稿と同時に自社ドメインで今週の研究ハイライトとして公開し、学術会議採択後はarXivリンクと自社ブログ記事を両方展開する。彼らにとってarXivは必要に応じて使うチャンネルの一つであり、on holdになっても自社ドメイン・Google Scholar・学術会議という代替経路が無数にあるため実質的なダメージがない。ファーウェイをはじめとする中国系大企業もarXivへの大量投稿を行っており、当社は実際にAIスロップ論文の掲載を確認している。機関所属による認証上の優位も踏まえると、こうした大企業所属者は実運用上、事実上の自動通過状態にある。arXivが「AIスロップで一番打撃を受けているのはCSカテゴリ」と認め、レビュー論文・ポジションペーパーを原則禁止にした直接の原因の一つがこの大量投稿である。皮肉なことに大企業がAIスロップを垂れ流し、機関所属のない独立研究者・小規模法人がその防衛措置の巻き添えを食らうという現象が発生している。
結果として現在のarXivでは、利用者が実質的に以下の四つの層に分かれている。第一層のGAFA・DeepMind等は実運用上ほぼ自動通過で大量投稿が可能であり、自社ドメインでも補完できる。第二層のファーウェイ等中国大企業についても、当社はAIスロップ論文を含む大量投稿がarXiv上に掲載されていることを確認している。第三層の中規模企業研究者はグレーゾーンでon holdが多発する。そして第四層の小規模法人や個人研究者は推薦状を保有しているにもかかわらずon holdによる実質的に排除がされている。これはオープンアクセスの看板を掲げながら、実態としては大企業の研究インフラとして機能しているシステムの姿である。
arXivの自己定義がオープンなプレプリントサーバーであるなら、本来の役割は形式的要件、法令上の制約、明白なスパム対策に限られるべきである。しかし、実際には「not of interest」やAIスロップ判定を通じて、研究内容・投稿者属性・投稿者の信頼性を不透明に評価し、投稿者を通常フローから排除している。これは単なる技術的モデレーションではなく、内容による選別であり、実質的な査読行為である。一般論として、論文の査読をしているなら、査読機関としての責任が発生する。査読プロセス、判定理由、異議申立制度が機能しているか、偽陽性への対応、処分件数、復帰率、未解決件数を公開し、少なくともCOPE加盟誌に求められる水準の説明責任を負うべきである。ところがarXivは、査読のように排除しながら、査読機関としての義務を負わず、オープンを標榜しながら実際には不透明な選別を行い、異議申立や長期放置による被害を個別事案として不可視化できる位置を占めている。ハゲタカジャーナルが著者から金を取るのに対し、arXivは金を取らないが、著者への不透明な扱い、品質管理の欠如、説明責任の不在という点では多くの点を共有している。
現行プラットフォームが採用している所属機関名=信頼という認証モデルは、表面的にはオープンに見えて実態は大手機関所属者を優遇する貴族趣味的な設計である。MITのメールアドレスを持つ人間は無検証で信頼され、パスポートしか持たない個人研究者は疑われる。これはオープンサイエンスの理念と真逆の帰結である。公的なKYC(納税証明・パスポート・政府発行ID等)が問うのは、どこの組織に属しているかではなく、責任を負える一人の実在する人間かだけである。この問いこそが、AIスロップ時代における真に民主的でオープンなインフラの唯一の正当な条件である。AIスロップが問題なのは、それが大量かつ無責任に生成されるからである。逆に言えば、責任を負える実在する人間が、自分の投稿に責任を持つという条件さえ満たせば、その人間が大学に所属していようとなかろうと、内容の真正性とは無関係に投稿の権利を持つべきである。大手研究機関所属を問うことは、この問いへの回答にならない。AIはパスポートを持てないし、納税義務を負えない。しかし実在する人間はそれができる。この非対称性こそが、KYCがAIスロップと人間の知性を分ける唯一の正当な検問所である根拠であると我々は主張する。オープンサイエンスを標榜しながら利益相反関係であることを事実上の条件とする現行プラットフォームは、KYCという民主主義の条件を拒否することで、既得権益層の特権を開放という言葉で偽装している。フロー設計アプローチにおけるKYCは、排除の道具ではなく包摂の道具である。世界中のいかなる研究者も、人間としての実在さえ証明できれば等しく聖域枠を持つことができる。これは現行システムが達成できていない、そして達成する気もない真のオープンサイエンスの姿である。
AIスロップ対策の副作用がAIスロップ研究者自身を直撃するという深刻な現状を記録する。